インタビューInterview
ここを巣立った子どもたちにとって、ふるさとであり続けるために。
「SOS子どもの村」が福岡に設立されるきっかけをつくってくださった、「株式会社千鳥饅頭総本舗」の社長、原田浩司様にインタビューをさせていただきました。
千鳥饅頭総本舗の販売する洋菓子「チロリアン」は、オーストリアのチロル州の伝統菓子をモデルに誕生した福岡の銘菓。2022年には、発売から60周年を迎えています。
わんぱくだった子ども時代。
子ども時代の私は一言でいうと「わんぱく坊主」で、弟といつもイタズラばかりやっていました。母との関わりの中で一番の印象は、いつも美味しい食事を作ってくれていたことです。
母はドイツ人で、父との結婚を機に日本へ移住をしてきました。私が幼いころに母が作ってくれたお弁当は、「白ごはんに白胡麻」「ブロッコリーに卵焼き」などで、タコウィンナーが入っているような豪華な友人のお弁当と見比べて、恥ずかしいような想いをした時期もありました。
しかしながら、今ではおせち料理をすべて手作りするほどの料理上手です。母がイリコのはらわたを取る作業をしているのを、ドイツに住んでいる母の家族が見た時、とても驚いていました(笑)
「子どもの村福岡」立ち上げまでの軌跡と父の強い信念。
「SOS子どもの村」が、福岡にできることになったきっかけは、父が菓子修行でドイツを訪れた際に出会った、チロル地方の「SOS Children’s Villages」の子どもたちとの出会いだったそうです。
そこで暮らしていた子どもたちは、とても大変な家庭環境のなかで育ってきたはずなのに、SOS子どもの村で生活している子どもたちの表情が明るかったことがとても印象的だったようです。
父(先代社長:原田光博さん)と母が、「いつか日本にも子どもの村ができるといいね。」という話をしていたようですが、残念ながら息子の私にはそういう話はありませんでした。
2004年頃だと思いますが、父が熱心にSOS子どもの村の立ち上げに取り組んでいたことは承知していました。
父は何事も一度やると決めたら絶対に曲げない人でしたが、父がSOS子どもの村の立ち上げに関わり始めたころは、会社経営が本当に厳しい状況の時だったので、当時の私は、父が抱いていた想いについて、決して快く思っていませんでした。
数年にわたり父は病を抱えながら、最後の力を日本初の「SOS子どもの村」設立にむけて振り絞っていたようですが、2010年の事業開始を見届けることなく他界しました。その後父が居なくなり、しばらく経ってからSOS子どもの村の活動を耳にする機会がありました。
・父の呼びかけがきっかけとなり、「子どもの村福岡」の立ち上げを支援するために、地元の経済界が結束したこと。
・「子どもの村福岡」での養育が日本全国からも注目され、見学者が累計10,000人を超えたこと。
振り返ってみれば、父がドイツに菓子修行に行き母と出会わなければ、SOS子どもの村は福岡にできなかったのではないかと思います。父は信念を持って偉大なことをやり遂げたのだと、改めて認識しています。
「SOS子どもの村JAPAN」が子どもたちにとって、
故郷であり続けるために。
数年前に、オーストリアにある「SOS Children’s Villages International」を見学させてもらい、家庭的で明るい雰囲気だったことがとても印象的でした。
「SOS子どもの村JAPAN」でのさまざまな活動も、温かい雰囲気であり続けて欲しいと思っています。商売の根幹は「気」を大切にしています。明るい雰囲気を作り続けることが、商売繁盛の鍵になります。
SOS子どもの村JAPANの活動は、長く続けていくことが大切だと考えています。「子どもの村福岡」を巣立った子どもたちにとっての故郷であり続けるためにも、なくしてはならない居場所であると感じています。
「SOS子どもの村JAPAN」がこれからも、子どもと家族の支援活動を長く継続ができるように、社会の一員として私たちからも応援しています。