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【メルマガ限定記事】初代理事長故満留昭久福岡大学医学部名誉教授(当時)の思い出

こんにちは事務局の藤本です。2015年2月にお亡くなりになられた、初代理事長、満留昭久福岡大学医学部名誉教授(当時)とのささやかな思い出について記してみたいと思います。

小児科医である満留先生は、がんと闘いながら「僕の最後の仕事」とSOS子どもの村の立ち上げに尽力されました。

私がSOS子どもの村に入職したのが2013年6月ですので、わずか1年半のお付き合いとなりましたが、満留先生を始めとする創業理事の皆さんが寄付集めにご苦労されたからか、私に対してはいつも気遣ってくださいました。

当時、末期のがんと闘いながらだったのだと思うのですが、闘病生活を一切感じさせることなくいつも優しく接してくださいました。

お亡くなりになる前月のことです。「藤本さん、来週、長崎の講演会に呼ばれているから寄付の申込書を配ってくるよ。」と、いつもどおりの笑顔で声をかけてくださいました。私の中の満留先生の記憶は、この日が最後となりました。

SOS子どもの村の設立時、メディアに取り上げられ注目されることも多かったそうです。

後から知ったことですが、満留先生は「理事が目立って褒められるようなNPOになってはいけない。子どもたちのための活動を、一人でも多くの市民の皆さんに支えられながら活動して欲しい。」と口を酸っぱくしておっしゃっていたそうです。

最近、満留先生が携わった『10,000人に支えられる子どもの村プロジェクト(仮)』という企画書を読み返す機会が増えました。

天国から優しい笑顔で、「藤本さん、あとは頼んだよ。」と、おっしゃる満留先生のお言葉を胸に秘めつつ、日々邁進していきたいと思います。

最後に、ある会報誌に寄稿した、常務理事の坂本雅子による、満留先生への思いを記した文章を引用したいと思います。

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満留先生には、福岡大学退職を前に里親普及「新しい絆プロジェクト」の委員長と「子どもの村福岡を設立する会」の理事長の二つのお役をお願いに行きました。引き受けて下さった時の先生の言葉を思い出します。

「僕は、長い間、子どもの虐待に取り組んできたけれど、日本は全然変わらなかった。でも、このプロジェクトからは、変化が起こるかも知れない」。

また、2010年4月の開村式では、多くの支援者や西区今津の地域の方への感謝とともに、この門出をマザーテレサの「大海の水の一滴」の例えを引いて「この村は日本の社会的養護という海では一滴の水にすぎないかもしれません。しかし、その水は、日本国中に広がっていくと信じています。」と述べられました。

我が国の社会的養護制度は、戦後の施設中心のままで長い間変わることなく、諸外国からは大きく立ち遅れています。

このようななかで、満留先生は、ふたつの活動を、福岡からの社会的養護制度への挑戦と位置付けられていたと思います。

2011年から、国も「里親養育の推進」施設の「小規模化」「地域でのグループホーム化」へと動き始めています。

子どもの村の大海の一滴としての役割がさらに重要になってきています。

満留先生は、がんと闘いながら、今津の地域の子育て講座など、しばしば子どもの村へ足を運び、苦労している育親やスタッフに「完璧な子育てでなくっていい。愚痴を言っていい。」「みんなで助け合って。」とその働きを評価し、励ましてくださいました。

子どもたちの小さな発達を見逃さず、また、子どもや実家族への偏見には、厳しい目で教え、諭してくださいました。

優れた小児科医であり教育者でありましたが、近年は、社会小児科学という言葉もよく口にされていました。先生には、村の子どもが「先生は、天国に行ったけど僕たちの心の中にいるね」の言葉を送りたいと思います。

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