こんにちは、SOS子どもの村の広報担当の舛田(ますだ)と申します。今年の4月から、広報職員として入職しました。
私が「SOS子どもの村」を知ったきっかけは、2015年、千鳥饅頭総本舗茶山店に置かれた募金箱との出会いからです。レジ横に置かれた募金箱のイラスト(お母さんと僕)に惹かれ、当時店長の「村上さん」に「子どもの村福岡」についてお尋ねしたところ、「千鳥饅頭総本舗」と「SOS子どもの村」の関係や、先代の会長・故原田光博氏と奥様のウルズラさんが抱いておられた熱い想いなどを語ってくださいました。

千鳥屋 西新店

千鳥屋 西新店 SOS子どもの村へ寄付をしていただける自販機設置してくださっています。
それ以来、「SOS子どもの村福岡」の存在が気になりだし、自宅の近くにあった当時の法人事務局にボランティア活動を通して関わるようになり、2017年からは「マンスリー支援会員」に登録、そしてこの4月からはSOS子どもの村の職員になりました。
沢山のご縁が重なり、先日、原田ウルズラさんと、原田広太郎さん(千鳥饅頭総本舗の専務取締役)にお会いする機会をいただきました。
ウルズラさんも広太郎さんも、とてもお優しく気さくなお人柄で、「SOS子どもの村の事はいつも気に掛けています」とのお言葉をいただきました。
ドイツ出身のウルズラさんは、ドイツで洋菓子の修業中だった故原田会長と出会われ、ご結婚されたそうです。4月に入職して以来、SOS子どもの村の設立経緯を知るにつれ、お二人の出会いがあったからこそ「SOS子どもの村」が福岡の地に誕生したのだと、改めて実感しました。
故原田会長とウルズラさんの想いが、時を超えて「SOS子どもの村」と私を繋げてくれたように感じています。すべての子どもたちの笑顔を想いながら、お二人の想いを繋いでいく一端を担うことができて光栄です。
SOS子どもの村に入職する直前の3月、運転中の信号待ち交差点に停車中、「村上さん」によく似た方が千鳥饅頭総本舗西新店にいらっしゃるのを偶然見かけました。もし村上さんならば、SOS子どもの村で働くことなったことをお伝えしたいと思いご挨拶すると、やはり村上さんでした。
約8年ぶりに「村上さん」と再会し、あの時のご縁があったからこそ、4月から職員になりますとお話しすると、「子どもの村が開村するまでは企画室で勤務していたから、亡くなった会長とよくご一緒していたのよ。」と話してくださいました。その時、どうしてもウルズラさんに感謝の気持ちをお伝えしたいと思い、無理を言って村上さんからウルズラさんに連絡をお取りいただき、ようやくお目にかかることが叶ったのでした。
千鳥饅頭総本舗さんからは現在も、数ある支店の全店舗に、SOS子どもの村を支援する募金箱と寄付型自動販売機を設置していただく等、継続したご支援をいただいております。
このように、沢山の方々に支えていただきながら、当法人が活動できていることに感謝し、これからも子どもたちや家族に寄り添いながら活動して参ります。
最後に、千鳥饅頭総本舗さんの公式ホームページにて、当法人のへの支援を記載してくださっている記事をご紹介いたします。
『千鳥饅頭総本舗の先代会長・原田光博が、菓子職人の修行のために渡欧したとき、オーストリアのチロル州にあるSOS子どもの村を訪れました。
やむを得ない事情で実の親と暮らせなくなった子ども達が、里親に愛情を注がれながらのびのびと生活する姿に深い感銘を受けた光博は、福岡に帰ってから、福岡にSOS子どもの村を誘致するという大きな夢を持ちました。
土地探しや資金集め、近隣の住民の方々との話し合い。たくさんの壁を一つ一つ乗り越え、数十年をかけながらあきらめることなく一歩ずつ歩み続けた道のりでした。
チロルとの提携20周年には、飛行機をチャーターして多くの福岡の財界人とともにチロルに訪問したこともありました。
チロルで提携記念式典を行い、総勢300名で子どもの村を表敬訪問したのです。
これをきっかけに、福岡での子どもの村設立が具体的に動き出しました。
しかし、光博の体はすでに癌に侵されていました。
10年以上の闘病生活の間、入院中も病院を抜け出して土地探しの交渉に出向き、苦痛を感じさせない行動力で精力的に企業や団体に協力を呼びかけ、最後の力を日本初のSOS子どもの村設立にむけて振り絞っていたのです。残念ながら光博はSOS子どもの村福岡の設立の日に立ち会うことはできず、2008年6月6日にこの世を去りました。
SOS子どもの村福岡は、親と離れた子ども達が、傷ついた心を癒し、しっかりと成長していける家です。原田光博の大きな夢はいま、福岡市の西区今津の地で、子ども達と共に生き続けています。』
千鳥饅頭総本舗公式ホームページより
WEBサイトはこちらから